ロイヤル・アッシャー・ジャーナル
新連載『旅するジュエリー』

長い年月をかけて地球が生み出してきた光り輝く色とりどりのジュエリー。

いつの時代もこれらのジュエリーは人々を魅了し、ときに略奪の対象になり、また貢物として献上されてきました。古くは、商人や冒険家たちが、王侯貴族や宗教的な支配者などその時代の絶対的な権力者の求めに応じて、危険と隣り合わせになりながらも、貴重なジュエリーを遠い国々から運んできたのです。

今シリーズでは、『旅するジュエリー』と題して、「旅する」=「移動する」「広がる」「手から手に渡る」「受け継がれる」「贈られる」「持ち歩く」「影響を与える」など幅広い解釈を加えて、ジュエリーのルーツを探るとともに、産出地や交易地、魅了された権力者、それらを運んできた商人や冒険家、護符として持ち歩いた人々などジュエリーにまつわる様々な話を書いていきたいと思います。

 


 

<はじめに>

古代ローマの高名な博物学者、プリニウス(23年-79年)に「夜空にきらめく天空の破片」と表現された青く美しい貴石、ラピスラズリ。

この言葉は、彼の生きた古代ローマ時代に、すでにラピスラズリがヨーロッパに届いていたことを示しています。

ラピスラズリは、険峻な山脈や大河が時に行く手を阻む、厳しい自然と豊かな恵みの共存するアフガニスタンで古くから採り出されてきました。

古来、ユーラシア大陸の東西南北をつなぐ交通の要所であり、「文明の十字路」として様々な人種や文明を受け入れてきたアフガニスタンでは、地の利を生かして、この貴石を東西に伝えていったのです。

ペルシャ、エジプト、ヨーロッパ、そして日本など、東西に広まったラピスラズリは、その価値の高さから、珍重され、今に引き継がれています。

今回は、この魅力溢れる貴石が伝播した地域の人々と文化を追いながら、宝飾品として広まった歴史を辿ってみたいと思います。

 

さて、ラピスラズリとはどのような宝石なのでしょう?

<青い石、ラピスラズリ>

まずは、ラピスラズリという宝石を知る上で、名前の由来をご紹介しましょう。

「ラピス」はラテン語の「石」を表し、「ラズリ」はペルシャ語の「青」を意味します。訳すと「青い石」の意味で、実際、この石はトルコ石と並び古くから青い石の代表格として知られています(注1.)。

〈金色のパイライトを含むラピスラズリ/写真:Alamy/アフロ〉

ラピスラズリは古代から、青い石の中の青い石として神聖視されていたのです。

不透明でモース硬度*が5〜5.5とそれほど高くなく、カボッションや磨き板や彫り物に適しているため、装飾品としても使われてきました。細工のしやすさと本来の美しさとを合わせ持つことが、古代から広く愛用されてきた理由なのです(注2.)。

*モース硬度:ドイツの鉱物学者モース(F. Mohs)によって考案された宝石の硬さの順位を表すもので、その宝石がどの標準鉱物で初めてキズがつくかを調べることで10段階に分類して、どこに位置するか決めるもの(注3.)。

青いラピスラズリにおいて、美的に欠かせないものは、金色のパイライトと呼ばれる小粒の黄鉄鉱です。これは金色の立方体が最もよく見る結晶形で、真っ青なラピスラズリの中に点々と散らばる様子は、まさに夜空にまたたく金の星のようであり、青いラピスラズリの深い美しさを一層際立たせているのです(注4.)。

 

さて、このラピスラズリは世界のどこで採れたのでしょう。

<ラピスラズリの産地>

パイライトという金色の星が点在し、真っ青で均質なラピスラズリは、アフガニスタン北部のバダフシャン地方で採れる特産品です。ヒンドゥークシュ山脈からパミール高原にかけての山岳地帯に産する、熱で変成された石灰岩が、ラピスラズリの故郷です。この地域は、本当に長い間、ラピスラズリを産する世界で唯一の場所だったのです(注5.)。

〈バダフシャンのサル・エ・サング鉱床で採れたラピスラズリ/写真:Alamy/アフロ〉

バダフシャン地方にある最古のサル・エ・サング鉱床は、標高2700mから3400mの鉱山に位置し、切り出した石を人間が担いでキャンプまで下ろし、そこから集積地まではロバの背に乗せて運んだのです(注6.)。

 

さて、苦労して運び出されたラピスラズリは、どのようにして東西に広まったのでしょう。

<ラピスラズリの供給拠点テペ・フロール>

まずは、バダフシャンの入口に位置するテペ・フロールをご紹介しましょう。

バダフシャンで切り出されたラピスラズリは、テペ・フロールを拠点にメソポタミアやインダスで興った都市文明に供給され、活発に交易されるようになっていきます。

〈テペ・フロールと関連遺跡の位置〉

中でも、紀元前5,000年頃に登場し、約3,000年にわたって存在した、アフガニスタン南部カンダハルの「ムンディガク遺跡」とイランとの国境付近のイラン側に位置する「シャフリ・ソーフタ遺跡」は、いずれもイラン高原とパキスタン南西部とを結ぶ都市遺跡ですが、この2つの遺跡でもラピスラズリを加工する工房跡が見つかっていることから、ラピスラズリが交易品として流通していたことを示しています(注7.)。

 

さて、ラピスラズリがアフガニスタンを越えて、世界各地に広まった地域、そこに至る経路、特徴的な装飾品を個別に見てみましょう。

まずは、バダフシャン地方の供給拠点テペ・フロールからメソポタミア文明やインダス文明に至るラピスラズリの経路を地図で見てみましょう。

〈テペ・フロールと関連地図 ラピスラズリの交易ルート〉

このメソポタミア文明へのルートを通じてもたらされたラピスラズリは、さらに西へと伝わっていきます。

 

文 :槐 健二
作画:コダマ マミ

【参考文献】
注1. 近山晶 著 1982.「新訂 宝石 その美と科学」全国宝石学協会 p.310
注2. 奥山康子 著 2023.「深掘り誕生石 宝石大好き地球科学者が語る鉱物の魅力」築地書館 p.181
注3. 近山晶 著 1982.「新訂 宝石 その美と科学」全国宝石学協会 p.176
注4. 奥山康子 著 2023.「深掘り誕生石 宝石大好き地球科学者が語る鉱物の魅力」築地書館 p.184
注5. 奥山康子 著 2023.「深掘り誕生石 宝石大好き地球科学者が語る鉱物の魅力」築地書館 p.184
注6. 飯田孝一 著 2022.「世界観設定のための宝石図鑑」エクスナレッジ p.104
注7. 河野一隆 文 2016.「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝 図録」産経新聞社 pp.26-27