ロイヤル・アッシャー・ジャーナル
新連載『旅するジュエリー』
長い年月をかけて地球が生み出してきた光り輝く色とりどりのジュエリー。
いつの時代もこれらのジュエリーは人々を魅了し、ときに略奪の対象になり、また貢物として献上されてきました。古くは、商人や冒険家たちが、王侯貴族や宗教的な支配者などその時代の絶対的な権力者の求めに応じて、危険と隣り合わせになりながらも、貴重なジュエリーを遠い国々から運んできたのです。
今シリーズでは、『旅するジュエリー』と題して、「旅する」=「移動する」「広がる」「手から手に渡る」「受け継がれる」「贈られる」「持ち歩く」「影響を与える」など幅広い解釈を加えて、ジュエリーのルーツを探るとともに、産出地や交易地、魅了された権力者、それらを運んできた商人や冒険家、護符として持ち歩いた人々などジュエリーにまつわる様々な話を書いていきたいと思います。
さて次は、シルクロードを通じて、日本にもたらされ、正倉院に保管されているラピスラズリについて、見てみましょう。
<3つのルートを持つシルクロード>
中国の漢(前漢:紀元前206-8年/後漢:25-220年)の時代に、西方ではローマ帝国(紀元前27-1453年)が隆盛を極めていましたが、この二大文明圏を結ぶ広大なユーラシア大陸の交易路こそが、「シルクロード」です。
中国の重要な産物である絹(シルク)を西方に輸出するためのルートを指してこの言葉が生まれました。
現在では、シルクロードは、遊牧民スキタイ族の活動域を通る「ステップルート」、帆船により中国からマレー半島を回ってスリランカやデカン高原、ペルシャ湾、紅海に入る「海洋ルート」、そしてオアシスを通る中央ルートの「オアシスルート」の3つに分けられると考えられています(注27.)。
これらのシルクロードを通じて、シルクをはじめ様々な物資が運ばれてきましたが、ラピスラズリもその中の一つです。
そうやって持ち込まれた宝物をおさめた奈良の正倉院について見てみましょう。
<国際都市、平城京>
正倉院の歴史は、奈良時代の聖武天皇治世の平城京に始まります。
平城京は、中国・唐(618-907年)の長安に倣い建設された国際都市でした。京内は国家を支える多くの都市民の居住地として整備されるとともに、唐や新羅、あるいはシルクロードを経由して、ペルシャやインドからも多くの人々が訪れ、多くの貴重な品々がもたらされたのです(注28.)。
<日本の正倉院に保管されているラピスラズリ>
奈良・東大寺大仏殿の北西約300メートルのところに位置する正倉院は、平城京に天平文化を花開かせた、奈良時代(710-794年)の聖武天皇(701-756年)と光明皇后(701-760年)ゆかりの品々や、東大寺での儀式関係品など、7-8世紀の膨大な宝物が納められた、日本が世界に誇る貴重な遺産です(注29.)。
その宝物の中にある「紺玉帯残欠」の「紺玉」こそが、ラピスラズリであり、ラピスラズリで飾られた帯です。そしてその産地はバダフシャンだと言われています。
紀元前数千年の昔からエジプトやメソポタミアをはじめ世界各地にもたらされた重要な交易品であったラピスラズリは、奈良時代の日本にも貴重な異国の特産品としてもたらされ、時の天皇へと献上されていたのです(注30.)。

〈紺玉帯残欠〉
では、このラピスラズリを使ったベルト「紺玉帯残欠(こんぎょくのおび ざんけつ)」とはどのようなものだったのでしょう。
<紺玉帯残欠>
紺玉帯残欠は、皮製の腰帯(ベルト)で、当代一流の貴族が着用していたと考えられています。
ベルトの表面に四角や半円形のようなラピスラズリが取り付けられています。
古代日本の基本法令である『養老令(ようろうりょう)』によると、腰帯につけられる材質は、身分によって制約があると記載されています。
ラピスラズリについては、規定がないのですが、アフガニスタン特産の鉱石であることを考えると、到底一般の貴族が着用すると考えるのは現実的でないでしょう。しかも、現在もこの紺玉帯を納めていた螺鈿箱が伝わっているのですが、その見事な細工からもよほどの貴人の持ち物だったと考えられているのです(注31.)。
次は、ヨーロッパに伝わったラピスラズリが、絵の具の顔料として珍重されたエピソードをお伝えしましょう。
<絵具の顔料としてのラピスラズリ>
美術の世界では、ラピスラズリは違った意味で重んじられています。それは絵具の顔料としてなのです。顔料の「ウルトラマリン」は高純度のラピスラズリの粉末そのもので、ヨーロッパの絵画では、フレスコ画の時代から色褪せない青として珍重されてきました。

〈天然のウルトラマリン / 写真:Alamy / アフロ〉
赤や緑が身近な原料で調整できたのに対して、青はそういうわけにはいきませんでした。藍銅鉱という銅の鉱物の粉である青い顔料、すなわち、日本画の岩群青にあたる青い顔料は、「マウンテン・ブルー」として知られていましたが、これは耐久性がややおとり、歳月と共にくすんでしまうことも知られていました。
これに対して、ウルトラマリンは、決して色褪せない優れた性質を持っていました。この顔料はヨーロッパには産しない到来物で、海(マリン)を渡ってくるものという意味から「ウルトラマリン」の名がついたのです。当然、とびきり高価なものでした。これはラピスラズリが安定的な珪酸塩鉱物であるためです(注32.)。
このラピスラズリを顔料として使った有名な画家と作品を紹介しましょう。
<フェルメール・ブルーを生み出したラピスラズリ>
航海術の発達にともなって、世界の海に乗り出していったオランダは、折しもスペインから独立したばかり。
プロテスタントを国教として、慎みと労働を美徳とする中、貿易で利益を得た商人たちをはじめ、市井の人々の暮らしは豊かになっていきました(注33.)。
そんな時代に生まれたフェルメール(1632-1675年)は、当時の人々の暮らしぶりを描いています。

〈青衣の女 / ヨハネス・フェルメール / 1663-1664年 / アムステルダム国立美術館所蔵〉
「青衣の女」は、遠近法を用いないシンプルな構図で、抑制の利いた構成は、光とごくわずかな色数だけで、手紙を読む女性の内面世界を表現しています(注34.)。
この絵画をはじめ、「真珠の耳飾りの少女」「牛乳を注ぐ女」などに共通する象徴的な配色は、「フェルメール・ブルー」と呼ばれる美しい「青」です。
フェルメールはこの青色を出すために、希少なラピスラズリを原料とする高価な絵具を使うことにこだわったのです。また、青を引き立てるために補色の「黄(鉛錫黄)」も多用しています。
フェルメールが生きた17世紀は商業国オランダの最盛期であり、オランダでは遠い異国からこうした貴重な絵の具も入手しやすかったという事情もあったのです(注35.)。
<最後に>
ラピスラズリをめぐる旅はいかがだったでしょうか?
その昔、唯一の採掘地アフガニスタンのバダフシャンが、シルクロードなどの交通の要所であったことをきっかけに、ラピスラズリは東西に広まっていきました。
ラピスラズリの美しさ、神秘性、加工のし易さなどにより、もたらされた地域で、装飾品や絵の具の材料として人々を魅了したのでした。
文 :槐 健二
作画:コダマ マミ
注27. 萩野矢慶記 著 2016.「ウズベキスタン・ガイド シルクロードの青いきらめき」彩流社 p.8
注28. 米田雄介 著 2002.「すぐわかる 正倉院の美術 見方と歴史」東京美術 p.92
注29. 米田雄介 著 2002.「すぐわかる 正倉院の美術 見方と歴史」東京美術 pp.4-5
注30. 小泉惠英 文 2016.「図録 黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝」産経新聞社 p.17
注31. 米田雄介 著 2002.「すぐわかる 正倉院の美術 見方と歴史」東京美術 p.70
注32. 奥山康子 著 2023.「深掘り誕生石 宝石大好き地球科学者が語る鉱物の魅力」築地書館 p.181
注33. 林綾野 著 2011.「フェルメールの食卓 暮らしとレシピ」講談社 p.4
注34. 大友義博 監修 2022.「フェルメール 生涯と全作品」宝島社 p.46
注35. 大友義博 監修 2022.「フェルメール 生涯と全作品」宝島社 p.47