ここまで、イギリスで開発されたエドワーディアン・ジュエリーについて書いてきましたが、実は、フランスでも同時期、極めて似通ったジュエリーが流行ります。

ところがフランスの事情はイギリスとは少し違っているようです。

<フランスのベル・エポック時代のジュエリー>

イギリスでは貴族社会が続いていたのに対して、フランスでは18世紀末期から19世紀にかけて相次いで起こった革命によって、王侯貴族は追放され、代わりに社会の牽引役として登場したのが「ブルジョワ」と呼ばれる新興の富裕層でした。

ブルジョワは産業革命によって新しく生まれた富裕層でしたが、フランスではイギリスより50年以上遅れて登場します(注27.)。

フランスで登場したブルジョワは、華やぐ社交界でもっとも洗練された装いでスノビズムを競い合い、趣味嗜好においては、追放した王侯貴族が好んだジュエリーと非常に似ているか、または模倣したとも言えるほどに、同じスタイルを追求していました。

当時パリで実力をつけていた高級ジュエラーは、このニーズを敏感に感じ取り、特権階級の人々が着用するのに相応しい堂々としたジュエリーの製作を一手に引き受け、数多く世に生み出していったのです(注28.)。

〈プレ・カトランの宵アンリ・ジェルヴェクス / 1909年 パリ・カルナヴァレ美術館所蔵 / Wikimedia Commons 〉

この絵画は、フランスのベル・エポック期にブローニュの森に建てられた高級レストラン「プレ・カトラン」で、毎夜、華やかな宴が繰り広げられた様子を描いたものです(注29.)。

華やかな服装とジュエリーに身を包んだ、当時のブルジョワの洗練された社交界の様子を今に伝えています。

1870年の第三共和政から第一次世界大戦が始まる 1914年前後までを、フランスではベル・エポック(良き時代、美しき時代)と呼んでいますが、この時代のフランスのジュエリーと、同時期に生まれたイギリスのエドワーディアン・ジュエリーは、ほとんど差がなく、外見では、識別ができないほどの出来栄えでした。

当時のパリのジュエラーたちは、ルイ16世(1754-1793年)様式の代表的なデザインで優美な流れのある、ロココ・カルトゥーシュ(渦形装飾)やロカイユ装飾などに影響を受け、ガーランド(花綱模様)やリボン結びなどを復活させ、これらが20世紀初期のジュエリーの中心的なモチーフになっていったのです(注30.)。

特にガーランドスタイルを導入した先駆者ルイ・カルティエの存在は大きかったと言えるでしょう。

カルティエでは、1899年、父である二代目アルフレッドとともに三代目ルイが経営に携わります。

ルイは、芸術に深い造詣を持ち、過去の栄華の時代、特にブルボン王朝が華やかだった18世紀の装飾に限りない憧憬を抱き、そこからインスピレーションを得て創作したガーランドスタイルをプラチナに取り入れたのです(注31.)。

彼はデザイナーにパリの建築物のディテールを写生させ、18世紀のデザインパターンを調査させるとともに、彼が最も愛した装飾、ガーランド(花綱模様)や月桂樹の花輪飾り、蝶結び、タッセル、そしてレースのモチーフを導入したのでした(注32.)。

〈ガーランド様式のペンダント・ブローチ / 1906年 / カルティエ 〉

これは、プラチナとダイヤモンドのペンダント・ブローチです。

柔らかな布地を思わせるリボン結びとレース模様のドレープに、しなやかで強靭なプラチナの特性が巧みに表れています。

作られたジュエリーも、ティアラ、コルサージュ・ブローチ、ソートワールなどイギリスの貴族向けに作られたアイテムと同じでした。

おそらくこの英仏両国のジュエリーが酷似した原因の一つは、プラチナと大量のダイヤモンドの使用にあると思われます(注33.)。

この時代、プラチナを用いる場合には、極力その使用量を減らしていき、軽く繊細に作るのが職人の技でした。

今に残る名品を見ると、プラチナというよりも銀糸を編んだような、柔らかさを感じます。

それほどにこの頃のプラチナ加工技術は優れているのです(注34.)。

またこの時代、皇太子時代のエドワードがフランスとの関係を大切にしたことも、両国に同様のジュエリーをもたらしたと考えられています。

<フランス贔屓だったエドワード皇太子>

皇太子時代のエドワードにとって、父アルバート(1819-1861年)の死は自分が招いたと結論づけた母ヴィクトリア(1819-1901年)から疎まれるようになった1860年代後半以降、憩いの場となったのがパリでした。

フランス語が堪能で、フランス絵画や建築にも造詣の深かったエドワード皇太子は、1867年と1878年のパリ万博で、イギリス展示部門の責任者としてたびたびこの「花の都」を訪れては、パリの政府首脳や市民たちと交流を深めていったのです。

生来、美しいものをこよなく愛するエドワードは、無類の宝石好きでした。

敬愛するナポレオン3世(1808-1873年)が愛用していたことから知られるようになったカルティエはエドワードのお気に入りの宝飾店でした(注35.)。

ヴィクトリア女王逝去後、エドワードの戴冠式とそれに続く祝典に招待されている貴族たちは、身に着けるドレスとジュエリーの準備に大忙しでしたが、ジュエリーの注文は群を抜いてカルティエが多く、同社が彼の戴冠式のために受けたティアラのオーダーは、27点にものぼっています(注36.)。

〈ガーランド様式ティアラ / カルティエ / 写真:AP アフロ 〉

エドワードは、パリに赴くたびにカルティエを訪れ、自身の戴冠式の1902年には、ロンドンのニューバーリントン街に出店させ、さらに1904年には同社を英国王室御用達に任命しています。

カルティエが王族から御用達の栄誉を与えられたのはこれが初めてのことでした(注37.)。

このように、エドワーディアン・ジュエリーの代名詞とも言える、カルティエデザインのジュエリーは、英国国王エドワード7世が認め、イギリスへの橋渡しの役目を果たすことで、英仏両国に広まったのです。

<王侯貴族とブルジョアの時代の終わり>

イギリスでは、エドワード7世が1910年に亡くなり、息子のジョージ5世(1865-1936年)の時代へと移ります。

その後、1914年に勃発した第一次世界大戦が、ヨーロッパの王侯貴族社会に大きな影を落とします。

この戦争は、アメリカの参戦でようやく1918年に終結しますが、オーストリア(ハプスブルク朝)、ロシア(ロマノフ朝)、トルコ(オスマン朝)、ドイツ帝国(ホーエンツォレルン家)、バイエルン王国(ヴィッテルスバッハ家)、その他、弱小の君主国家はすべて消滅します(注38.)。

王やその取り巻きの貴族たちも、母国を離れて亡命の旅に出ました。

当然のことながら、彼らの移動の際には、所有する莫大な宝石が持ち出され、やがて生活のためその多くは売却されてしまいます。

もはや独特な曲線が特徴のアール・ヌーヴォー・ジュエリーなどが使える時代は終焉を迎え、貴族社会やブルジョワが主導したエドワーディアン・ジュエリーやベルエポック・ジュエリーも、主役を失ったことで、その姿を消していくのです(注39.)。

それほどまでに第一次世界大戦がジュエリー業界に与えた影響は大きかったのです。

文 :槐 健二
作画:コダマ マミ

【参考文献】
注27. 山口遼 文 2010.「ジュエリーコーディネーター 第49号 2010年夏」一般社団法人日本ジュエリー協会 p.5
注28. 山口遼 著 2005.「すぐわかる ヨーロッパの宝飾芸術」東京美術 pp.85-86
注29. 千足伸行 監修 2013.「ミュシャ パリに咲いたスラヴの華」小学館 p.78
注30. 戸井田正己 著 1992.「アンティークと20世紀ジュエリー」柏書店松原 p.103
注31. 川島ルミ子 著 2014.「カルティエを愛した女たち」集英社 pp.9-10
注32. 戸井田正己 著 1992.「アンティークと20世紀ジュエリー」柏書店松原 p.103
注33. 山口遼 文 2010.「ジュエリーコーディネーター 第49号 2010年夏」一般社団法人日本ジュエリー協会 p.5
注34. 山口遼 文 2010.「ジュエリーコーディネーター 第49号 2010年夏」一般社団法人日本ジュエリー協会 p.6
注35. 君塚直隆 著 2012.「ベル・エポックの国際政治 - エドワード七世と古典外交の時代」中央公論新社 p.96
注36. 川島ルミ子 著 2014.「カルティエを愛した女たち」集英社 p.124
注37. 君塚直隆 著 2012.「ベル・エポックの国際政治―エドワード七世と古典外交の時代」中央公論新社 p.97
注38. 中野京子 著 2017.「名画で読み解く イギリス王家12の物語」光文社 p.192
注39. 山口遼 文 2010.「ジュエリーコーディネーター 第49号 2010年夏」一般社団法人日本ジュエリー協会 p.1