さて、ここまでエドワーディアン・ジュエリー、ベルエポック・ジュエリーの歴史を追ってきましたが、プラチナ・ジュエリーのその後について、見てみましょう。
19世紀末期から1925年頃にかけて、ヨーロッパのジュエリー業界において一世を風靡したプラチナですが、実はヨーロッパでは短命に終わっています。
その背景について詳しくご紹介しましょう。
<プラチナ・ジュエリーのその後>
プラチナの供給元が、当初の南米から1817年前後にロシアのウラル地方で発見された鉱山に移ったことで、当時の帝政ロシアが世界最大の供給国となりました。
しかし、1914年に第一次世界大戦が始まると、軍需物資となっていたプラチナの輸出をロシア政府が停止したため、ヨーロッパ諸国への供給が止まってしまいます。
さらに、1917年のロシア革命でプラチナの生産が混乱したことで、ヨーロッパにおける新しい金属プラチナへの熱狂は衰退していきます(注40.)。
ところが、ヨーロッパでは白色の貴金属は依然として需要が高かったため、20世紀初頭、その役目はプラチナからホワイトゴールドに取って代わります。
金にニッケルやパラジウムなどを混ぜることで白い金が得られることはすでに知られていたのです(注41.)。
そして、1920年前後に素材の確保がいよいよ難しくなったプラチナに代わり、ジュエリーの主素材としてホワイトゴールドが本格的に用いられるようになります。
ホワイトゴールドは、安価で、製造面でもはるかに加工しやすかったため、プラチナの代用品となったのはある意味当然の成り行きだったのでしょう(注42.)。
このような経緯で、1925年前後から、プラチナ製のジュエリーは衰退を始め、ホワイトゴールド製のジュエリーが増え始めます。
そのため、ヨーロッパでプラチナがジュエリーに用いられた歴史は、1890年頃から1930年前後までの約 40年に過ぎないのです。
これは、1924年に南アフリカ北西部で、メレンスキー・リーフと名付けられた世界最大のプラチナ族鉱脈が発見され、プラチナの供給がスムーズになった後も、ジュエリーに再びプラチナが使われることは、ヨーロッパではなかったのでした(注43.)。
ところが、唯一、今日までプラチナを素材としてジュエリーを作っている国があるのをご存知でしょうか?
それは日本なのです。
エドワーディアン・ジュエリーが日本のジュエリー業界に及ぼした影響について、当時の史実をもとに追ってみたいと思います。
<日本への影響>
開国以来、西欧文明の取り入れに熱心だった当時の日本人は、ジュエリーでもその技術を吸収することに熱心でした。
特に、養殖真珠を発明した御木本幸吉(1858-1954年)は、銀座4丁目の表通りに真珠専門店を開いた後、自分が養殖した真珠を素材として売るだけでは満足せず、商品の生産性を高め、世界に通じる技術水準を目指す積極的な経営を決断します(注44.)。

〈銀座4丁目表通りに出店する御木本真珠店 / 1906年(明治39年)/ 写真:ミキモト真珠島〉
その決断には、1902年(明治35年)、明治天皇の名代として小松宮彰仁親王(1846-1903年)が、イギリスのエドワード7世の戴冠式に出席するために訪英したことが関係しています。
その際、小松宮殿下は、土産の品として御木本で求めた半円真珠をパリで加工させ、イギリスの土産にしたと伝えられています。
小松宮殿下の帰朝後、御木本幸吉は宮内省の長崎省吾調度局長を通じてヨーロッパの装身具を見る機会があり、その高度な技術と図案の斬新さに驚嘆し、海外に学ぶ必要性を悟ったといいます(注45.)。
そのため御木本幸吉は、1907年(明治40年)に御木本金細工工場を設立し、ジュエリーデザイナーを採用するとともに、ジュエリーに加工するためのデザインについて、西欧の知識を取り入れることを決意し、幸吉の実弟の斎藤信吉や幸吉の妻、梅の弟、久米武夫を欧米に送り出し、海外の図案に関する書物や資料、製品の現物を手に入れます(注46.)。
こうして、海外の宝飾業界の情報が蓄積されると、今度はヨーロッパの高度な細工技術の導入が喫緊の課題となりました。
そこで白羽の矢がたてられたのが、小林豊造(1874-1921年)でした。
ニューヨーク美術館工芸学校や英国バーミンガム工業学校に官費留学した小林を、1910年(明治43年)に御木本金細工工場の第2代工場長として迎え入れると、翌1911年(明治44年)に、改めてヨーロッパの図案や細工技術の最新事情などの調査のため、海外視察に送り出したのです(注47.)。

〈矢車 / 1937年 / ミキモト真珠島所蔵 / 写真:ミキモト真珠島〉
画像のジュエリーは、1937年(昭和12年)のパリ万博に出品された御木本の「矢車」で、帯留めのほかブローチやリング、髪飾りなど12通りの使用が可能な多機能ジュエリーです。
この矢車は当時の日本のプラチナ加工技術の高さを示し、パリ万博で金賞を取得した逸品です(注48.)。
この矢車に使われている「カリブル留め」という技法は、小林豊蔵がヨーロッパ滞在中に取得した、ダイヤモンド、サファイア、ルビーなどの2ミリ程度の角石を地金に陥入する技法(注49.)であり、矢車に駆使された技術は当時の御木本が自社のジュエリーに完全に取り入れたことの証なのです。
また、御木本の海外情報収集では小林力弥(1865-没不明)の活躍も見逃せないでしょう。
1908年(明治41年)以降、小林力弥を海外市場調査のために世界各地に派遣しました。
1908年(明治41年)から1915年(大正4年)までロンドンとパリに滞在した小林は、ロンドンでは、「ガラード」や「アスプレイ」、パリでは「カルティエ」や「ショーメ」など有名宝飾店を見て歩き、ヨーロッパの宝飾品、装身具の流行、見本、関係文献などを東京に送っています(注50.)。
1900年からその後の10数年は、文字通りエドワーディアン・ジュエリーの全盛期であ り、プラチナ製ジュエリーがヨーロッパを席巻していた時期でもありました。
ちょうどそのさなかに、飛び込んでいったのが、まさに当時の日本人であり、ヨーロッパの最新のジュエリーとして見たものこそが、イギリスのエドワーディアン・ジュエリーであり、パリのベルエポック・ジュエリーだったのです。
技術の輸入はもちろんのこと、彼らはプラチナを加工したジュエリーも日本に持ち帰っており、事実、御木本では、1910年から1920年にかけて、表面がプラチナ、裏面が15金という貴金属を使った作品が多く作られています(注51.)。
当時の日本人がこのプラチナという金属を大変気に入り、その加工方法を習得し、今日に至るまで延々と使い続けてきたのです。
現代の日本におけるジュエリーに最も大きな影響を与えたのが、ヨーロッパでは極めて短命に終わったプラチナという素材を使ったエドワーディアン・ジュエリーであり、ヨーロッパでは、比較的軽く扱われるエドワーディアン・ジュエリーあるいは、ベルエポック・ジュエリーが、日本にとっては最上の手本だった(注52.)のは大変興味深いことです。
<さいごに>
1870年代から1900年までの平和な時代を経て、イギリスで生まれたエドワーディアン・ジュエリーは、フランスにおいても同じテーストを持つ、ベルエポック ・ジュエリーと称される端正で堂々としたジュエリーが生まれます。
前者が貴族社会で生まれたものであるのに対して、後者が貴族社会でないブルジョワ社会で生まれたものですが、
趣味嗜好において同様のスタイルのジュエリーが生まれた背景が、新素材プラチナの使用と大規模なダイヤモンド鉱床の発見が影響していること、また両国のジュエリー製作の橋渡しにイギリスのエドワード国王がその役目を果たしていることなど様々な要素が噛み合っていることは大変興味深いことです。
これらのジュエリーは王侯貴族社会が主導した最後の本格的なジュエリーでしたが、第一次世界大戦による王侯貴族社会の終焉とともに姿を消すこともジュエリー史においては、時代の趨勢と言わざるを得ないですね。
文:槐 健二
【参考文献】
注40. 山口遼 文 2010.「ジュエリーコーディネーター 第49号 2010年夏」一般社団法人日本ジュエリー協会 p.6
注41. 岡田勝蔵 著 2014.「図解 よくわかる 貴金属材料」日刊工業新聞社 p.66
注42. 山口遼 文 2010.「ジュエリーコーディネーター 第49号 2010年夏」一般社団法人日本ジュエリー協会 p.2
注43. 岡田勝蔵 著 2014.「図解 よくわかる 貴金属材料」日刊工業新聞社 p.112
注44. 1994.「御木本真珠発明100年史」株式会社ミキモト、株式会社御木本真珠島、御木本製薬、株式会社ミキモト装身具 p.72
注45. 松月清郎 文 2005.「日本のジュエリー100年 私たちの装身具 1850-1950」美術出版社 p.205
注46. 1994.「御木本真珠発明100年史」株式会社ミキモト、株式会社御木本真珠島、御木本製薬、株式会社ミキモト装身具 p.72
注47. 関昭郎 文 2005.「日本のジュエリー100年 私たちの装身具 1850-1950」美術出版社 pp.14-16
注48. 山口遼 文 2010.「ジュエリーコーディネーター 第50号 2010年秋」一般社団法人日本ジュエリー協会 p.3
注49. 関昭郎 文 2005.「日本のジュエリー100年 私たちの装身具 1850-1950」美術出版社 p.16
注50. 1994.「御木本真珠発明100年史」株式会社ミキモト、株式会社御木本真珠島、御木本製薬、株式会社ミキモト装身具 p.77
注51-52. 山口遼 文 2010.「ジュエリーコーディネーター 第50号 2010年秋」一般社団法人日本ジュエリー協会 pp.2-3